Masuk先を行くリスルに追いついたイーシュは、彼女と共に雪の積もった山道を歩いていた。辺りには煙が立ち込めていて、すぐそばにいるはずのリスルの姿さえも見失ってしまいそうなほどに視界が悪い。煙が目に染みて痛い。
リスルは辺りを探るようにしながら、慎重に歩みを進めていた。彼女は記憶の中の地図の情報を引っ張り出して、 「もう少し北寄りに進めば、崖になっていたはず。作業をするなら、たぶんそっちのほうがいいわね。元々燃えるものが少ないから、作業量を抑えられるわ」 方角すら怪しい中、二人はブーツの底で雪を踏みしめながら歩く。今の状況では、すぐにうっかり獣道へ迷い込んでしまう。 ふいにイーシュは体勢を崩し、足元を滑らせた。それまで立っていた場所の雪が崩れ、下へと落ちていく。咄嗟に持っていたシャベルを地面に突き立てたが、体重に耐えられずに傾いでいく。 「あっ」 声を上げたイーシュへとリスルの手が伸びてきて、腕を掴んだ。 「イーシュ、大丈夫?」 そういって引き上げてくれたリスルの腕は若い女性のものらしく華奢だった。イーシュは己を情けなく思いつつも、その腕に縋りながら這い上がる。 「ごめんなさい、わたしのミスね。思ってたよりもだいぶ進んでいたみたい」 「いえ……俺も注意不足だったので……。 ところで、ここが崖になっているってことはリスルさんが目指してたのはここですか?」 「そうみたいね。イーシュ、大丈夫そうなら、その辺りからずっと一直線に地面を掘って、溝を作ってくれる? わたしはこの辺りの木を切り倒すわ」 足元には気をつけてね、とイーシュへ注意を促すと、リスルは持ってきた斧の柄を両手で握り、振り上げようとする。しかし、気迫だけはそれっぽい感じを漂わせているが、姿勢がおかしいのかどことなく腰が引けている。生い茂る木々はどれも太く高かった。イーシュは何回目になるかわからないが、あまりにも無謀なことをしようとしていると思いが脳裏をよぎり、つい口を挟んでしまう。 「あの……リスルさん、斧を使ったことは……?」 「昔、教会の追手から逃げるときに投げつけてやったことならあるけれど……本来の使い方をしたことはないわね。それでもまあ、どうにかするわ。どうにかするしかないんだもの」 「無謀です……」 イーシュは半眼でリスルを見やりつつ、嘆息した。妙に気迫だけはこもっている理由については得心したものの、なぜ自分を含めて異能者というのはこうにも行き当たりばったりな発想になってしまうのだろうと頭を抱えざるを得ない。 (……あ) イーシュはあることを思いつき、リスルに声をかける。 「あの、リスルさん。俺、一つ試してみたいことがあるので、この前みたいにフォローしてもらえませんか? 上手くいけば地道に木をどうにかしようとするより、効率がいいかもしれません。時間、ないんですよね?」 ええ、とリスルは斧を下ろして頷いた。 「それで、何をするの?」 「俺の力なら、木を切り倒すくらいのことは造作もないはずです。俺が力を押さえられなくなったら、俺を気絶させてください」 「わかったわ。けれど、用途がそれなら、力に形を持たせたほうが良さそうね」 「力に形を持たせる?」 イーシュが聞き返すと、ええ、とリスルは頷いた。 「物には用途によって適した形があるでしょう? あなたの力はちょっと木を切り倒すくらいのことに使うには大きすぎるの。この前は、ただ少し力を発動させればいいだけだから良かったけれど、今回は力を小さく絞った上で指向性を持たせる必要がある。だから、あなたが取り回しやすい形に力を変えてやったほうがいいのよ」 力の形を強くイメージするの、とリスルは言った。 自分の力が大きすぎるというのなら、きっと小さなもので構わないのだろうとイーシュは考える。 イーシュは頭の中で花を思い描いた。名前は知らないが、ヴェレーンの村長宅の庭にあった寒い季節に咲く薔薇によく似たスモーキーな色合いの花だ。何となくリスルに似ているような気がしていて、記憶に残っている。 小さな八重咲きの花を思いながら、イーシュは腹の底に力を込める。静かに呼吸を繰り返し、気持ちを落ち着かせていく。体の中で眠っていた力の奔流が沸き起こると同時にイーシュの双眸が琥珀色の輝きを宿し始める。暴走しそうな力を丹田に込めた力と己の意志で抑え込みながら、利き手へと纏わせていく。この前はここで力に呑まれかけた。リスルが意識を現実に引き戻してくれたから、あのときは事なきを得たが、正直怖い。 「大丈夫よ、イーシュ。落ち着いて。わたしがいるわ」 リスルの言葉にイーシュは頷き返した。弱気になりかけた心を叱咤し、手の中の力をイーシュはほんの僅かに解放した。 鈍色の光を帯びて、小さな金属の欠片がイーシュの指先に顕現する。彼は小さく息を呑み、意識的に腹に力を込め直す。今のところ失敗ではなさそうだが、うっかり気を緩めて力を暴走させるわけにはいかない。 彼の指先をぐるっと囲むように金属の欠片が連なり、八重咲きの花を形作っていった。幾重にも重なり合う花びらは冷たい銀色で、鋭く研ぎ澄まされている。 イーシュが生い茂る木の幹へと指先を向けると、彼が生み出した美しい金属の花は高速で回転しながら飛んでいった。それは木の幹を傷つけると、はらはらと銀色の欠片を散らしながら、イーシュの元へと戻ってくる。花びらの刃が触れた木が、切断面を露わにして傾いていく。 その様を呆然と眺めていたイーシュははっとして、体を突き破って出てこようと暴れている力に意志の力で蓋をする。体の中から湧き上がってきていた力の流れが消えていくのを感じる。ただの鋼の欠片となってイーシュの指先で浮遊していた花びらは力を失って、空中で霧散して消えていった。 「上手くいった……?」 信じられない思いでイーシュは呟く。彼の双眸は元の焦げ茶色に戻っていた。 リスルの監督の元とはいえ、自分で力を制御できたことが信じられなかった。 「ええ、成功みたいね。すごいわ、イーシュ」 リスルは微笑み、イーシュの髪を優しく撫でた。イーシュは子供扱いされることに多少憮然としつつも、悪い気はしなかった。負担がかかりすぎないように何回かに分けてイーシュは力を使い、辺りに生えていた木を薙ぎ払った。周囲の木々をあらかた切り倒し終えるころには、イーシュも何となく力の制御の仕方がわかるようになってきていた。
イーシュの様子に注意を払いつつも、シャベルで地面を掘り進めていたリスルは、 「ありがとう。木はもうこのくらいで良さそうよ。イーシュのおかげで助かったわ」 少し休んでいて、と言ってリスルはシャベルを動かす速度を上げようとする。しかし、その腕の動きは重かった。彼女の細腕が悲鳴を上げている。 「リスルさん、俺代わりますよ。リスルさんのほうこそ休んでいてください」 慣れない力の制御でだいぶ疲れてはいたが、それを表面に出さないように気をつけながら、イーシュはリスルの手からシャベルを奪い取る。錆びついたシャベルには水分を多く含んだ泥がこびりついていて重かった。 イーシュは腰を入れて重いシャベルで地面を掘り返していきながら、先程、レイモンと別れたときのことをぽつりと口にした。 「リスルさん。先程、神父様と何を話していたんですか?」 「……え?」 イーシュが切り倒した木の残骸の上に腰を下ろしていたリスルの顔が一瞬強張った。彼女は慌てて取り繕うように、 「何でもないわ、気にしないで」 「何でもないって顔じゃなかったですよ、神父様。もしかしなくても……死ぬ気ですか、リスルさん」 「山火事の起きている山に立ち入るんだもの、その可能性は充分にあるでしょう? わたしに何かあったときに、あなたが無事に逃げ延びられるように、手助けはしなくてもいいから見逃してあげてほしいってお願いいしただけよ」 「……」 いまいち納得のいかない顔でイーシュはリスルを見やった。 リスルよりも若い自分に彼女がなるべく負担をかけまいと配慮してくれているのはわかる。しかし、リスルは何かを隠しているような気がした。 彼女に助けてもらい、守ってもらうことしかできないのが心苦しい。自分がもっと年齢を重ねた大人の男で、こんなふうに何もかもが未熟ではなければとイーシュは思う。けれど、今の自分は彼女にとって足手まとい以外の何物でもないに違いなかった。 リスルは切り株に腰を下ろしたまま目を閉じ、ほんの少し力を解放した。彼女の髪が紅に染まっていく。感覚を研ぎ澄まし、自然の中に宿る”モノ”の声に耳を傾ける。 ふいにふらりとリスルの体から力が抜けた。すぐに腹の底に力を込め、体勢を整えたが遅い。 「……あっ」 山を焼く炎の流れを探るだけのつもりだった力がリスルの体を逆流し、暴発した。彼女の華奢な身体が赤い光を伴って明滅する。轟々と音を立てて風が荒れ狂う。暴風に煽られた炎が火の粉を盛大に撒き散らしながら、東へと流されていく。 「……村が!」 そう叫んでリスルは立ち上がる。風に嬲られる髪は元の茶色に戻っていた。 「このままじゃヴェレーンが焼ける……!」 わたしのせいで、と悲壮な顔で声に出さずに呟いたリスルの手を、イーシュはシャベルから手を離して握った。何ができるわけでもないけれど、思わず出た動作だった。 「リスルさん、もしかして……」 これまで毅然と振る舞っていたリスルの顔は、寒さのせいだけでなく青白い。イーシュが握ったその手は微かに震えていた。 彼女の余命が幾許もないことは知っていた。しかし、彼女の異能――《レーヴェン・スルス》の代償がこれほどまでに彼女を蝕んでいるとは想像できていなかった。 「言わないで。大丈夫、わたしは大丈夫だから。それよりも今は……」 リスルは首を横に振り、そう言った。大丈夫というその言葉はまるで彼女自身に言い聞かせているかのようだった。イーシュにはそれが何だか痛々しく見えた。 「全然、大丈夫じゃないですよ。たぶん、俺が思うよりもずっと、リスルさんの身体はぼろぼろなんじゃないですか? 俺は……そんな人を村に向かわせられません。リスルさんはどこか安全な場所で休んでいてください。村には俺一人で戻ります。もしかしたら、こんな俺でも何かできることがあるかもしれない」 「いいえ、わたしも行くわ。この事態を招いたのはわたしだもの。たとえ、石を投げられようと、唾を吐きかけられようと、責任は取らないといけないわ。せめて、最期に……一人でも多くの命を救いたいの」 リスルは自嘲するように笑う。最期って、とイーシュは目を見開いた。 「責任、責任って、なんでリスルさんはそうやってすぐ自分で背負い込もうとするんですか! それになんでそうやって最初から生きることを諦めちゃうんですか! この力のせいで絶望して、死にたいって思い詰めていた俺を掬い上げてくれたリスルさんはどこにいっちゃったんですか!」 ぽろりとイーシュの昂った感情に呼応するかのように双眸から透明な雫が滴り落ちた。鼻の奥がつんとして塩辛い。しかし、イーシュの口から溢れ出る言葉は止まらない。 「なんでそうやって、いつもいつも正しくあろうとして、自分の身を削るようなことをしちゃうんですか! 俺はたとえ正しくなくても、『聖女』なんかじゃなくても、リスルさんがリスルさんのままでそこにいてくれたらそれでいいんです! だから……」 イーシュの顔がぐしゃりと歪んだ。リスルはそっとイーシュの肩へ手を置く。 「……ごめんね。だけど、わたしはやっぱりこうすることしか選べないみたい。 それにこのまま、あの村を見捨てて逃げれば、ただでさえ教会から追われる身のわたしたちの立場はより悪いものとなるわ。悪魔の祝福を受け、災いを齎す、って。わたしは……あなたの未来を守りたい」 俺の未来、とイーシュは濡れた目を紺色だったダッフルコートの袖口で乱暴に拭いながら怪訝そうに聞き返す。そうよ、とリスルは頷いた。 「きっと、いつまでもこんな時代は続かない。わたしは、あなたが人並みに幸せに生きていくための、その糸口を作りたい。 だから、わたしは行くわ。わたしにできる精一杯のことをしに行くの。だから……」 リスルはもう、イーシュが共に来ることを拒む言葉は言えなかった。この少年と交わした約束をなるべくなら破るような真似はしたくなかった。 「一緒に来て、イーシュ」 ずるいですよ、と泣き笑いのような表情を浮かべたイーシュにリスルは敢えて軽口を叩く。 「大人なんてそんなものよ、覚えておきなさい」 とにかく時間がない。今はただ村への道を急ぐしかできなかった。 「村に戻りましょう、イーシュ」 そう言って大股に踏み出しかけたリスルの体がよろけて傾いだ。イーシュはそっと背に手をあてがって彼女の体を支える。服越しに伝わる体温がひどく熱かった。彼女が無理を押してそれでも動こうとしていることを改めて突きつけられ、イーシュはひどく苦しく思った。 どうしてそんなに強くいられるのか。その問いを押し殺して、イーシュはリスルの腕を取り、焦らないように気をつけながら可能な限り早足で歩き始めた。木枯らしに吹かれて、色づいた木の葉がどこまでも高く青い秋の空に舞っていた。 イーシュは目の前に広がる記憶のままの風景に足を止める。紐で無造作に束ねた灰色の髪とグレンチェックのチェスターコートの裾が冷たい風で揺れる。 五年前の冬、リスルによって一命を取り留めたイーシュは、雪が溶け、花の蕾が綻び始める季節まで、この村に滞在していた。その間に、命を落としたリスルの葬儀を済ませ、村の復興作業へと彼は携わった。 それからというもの、イーシュはどうしてもこの村――ヴェレーンには足が向かないまま、国内を転々としていた。あの日、この村が山火事に巻き込まれたという負い目が彼の足をこの村から遠のかせた。 たまに立ち寄った町で日雇いの仕事をしては小銭を稼ぎ、その日暮らしを続けているうち、背も伸び、顔立ちも大人びて、イーシュは青年といっていい年になっていた。しかし、これから年を重ねて、あのころのリスルの年を追い越したとしても、到底彼女に追いつけるとも、彼女のようになれるとも思えなかった。 イーシュはキャメルのボストンバッグを持ち直すと、歩き始めた。時期が終わりに近づいてきた金木犀が風に乗ってふんわりと香ってくる。 すっかりあのころと変わらぬ景色を取り戻した村の中を懐かしさと鈍い胸の痛みを感じながら歩くうち、イーシュは比較的大きな一軒の家の前へと来ていた。以前、彼がこの村に滞在していたころ、一時期身を寄せていた村長の家だった。庭先ではまだ少し時期が早いはずの花の蕾が綻び、甘やかだけれどほんのりとスモーキーな色を覗かせていた。その花を見るとどうしても、もうこの世にはいない女性のことを思い起こしてしまい、イーシュは少し苦しくなる。 イーシュは扉をノックしようとして、躊躇った。悴んだ手が行き場をなくして彷徨う。 あの翌年の春に、自分の中でいろいろなことに半ば無理矢理区切りをつけてこの村を発つときに、いつでもまた訪ねてきてほしいとは言われてはいた。けれど、イーシュはそんな社交辞令を鵜呑みにして、招かれざる客が何をしにまたこの村を訪れたのかと、この家に住まう人々の表情が歪むのを見たくはなかった。 「あら、あなた、どこかで……?」 背後から年老いた女性に声をかけられ、イーシュは振り返る。草花をあしらった深緑のショールを肩に纏った小柄な老女が口元を押さえてこちらを
街道を馬車が走っていた。西へと続くこの街道の先には、宗教都市レシェールがある。 灰色の空からこぼれ落ちてくる花の霙を窓越しに何とはなしにスフェルが眺めていると、彼の向かい側に座るセイランが声をかける。 「スフェル殿下、もうすぐレシェールに着きます。しかし、本当によろしかったのですか? 王族ともあろう殿下の供が私一人で。このように少人数での視察など……有り体にいえば教会関係者にナメてかかられます」 「そう言うから、お前を連れてきたし、馬車での旅にすることを了承したではないか。本来なら、私が単身、オリーブで訪問すれば事足りることだというのに」 己の従者の諫言に、スフェルは嘆息まじりにそう返す。セイランは溜め息をつきたいのはこっちだと胸中で思いながら、 「殿下はあまりにも王族の威厳や形式というものを軽んじすぎです。こうした少人数での電撃訪問で教会側の意表を突き、取り繕う暇を与えないようにするという殿下の意図はわからないわけではないですが……。ですが、せめて身の回りの世話をする侍女の一人くらいはお連れください」 「子供ではないのだから身の回りのことくらい、自分でできる。それに、私にはお前がいるのだから、何も問題はないだろう? 私の側には信頼できる者だけがいればそれでいい」 「でしたら、いい加減エミルを殿下の侍女として召し抱えられたらいかがです? 彼女であれば、書類上は我が家の末席に連なる身分ですから、誰にとやかく言われる心配もありませんし、何より殿下を裏切ることは絶対にありませんから」 スフェルは窓の外の空と同じように表情を曇らせる。ヘーゼルの双眸に物憂げな色を浮かべると、 「私の都合で、あの子の人生をこれ以上掻き乱すことがあってはならないだろう。あの子は窮屈な城よりも市井で穏やかに生きるべきだし、今回のような視察に同行させればあの子の身が危険に晒されかねない。それに、一度あの子には私のそばで働くことを断られているから、しつこく誘うつもりはない」 「要はエミルに嫌われたくないというだけの女々しい理由でしょうに……まったく、殿下は年ごろの娘に嫌われたくない父親か何かですか?」 「……そういうつもりはないのだが」 「常々申し上げておりますが、殿下はエミルに入れ込み過ぎです。それに、以前に殿下がエミルに城で働くように勧めたのは出会って間もないころ
炎の波の中で壁が建物の焼け残った骨組みが黒々とその姿を浮かび上がらせていた。瓦礫が赤い光をちらつかせながら地面に折り重なっている。その様はさながら廃墟のようで不気味さを感じさせた。 イーシュは逃げ遅れた人がいないか確認しながら、崩れかけた建物を周っていた。まとわりついてくる空気が熱い。喉の粘膜を焼かれないようにイーシュは外套の袖口で鼻と口を覆う。 いつ崩れてくるともしれない、瓦礫と化した建物の残骸をイーシュは慎重に調べていく。先程も、柱を失った家の梁が落下してきて、消火活動の指揮を取っていた村長が頭を負傷し、運ばれていったのを見た。 近くから誰かの呻き声を聞いた気がして、イーシュは辺りを見回した。積み重なって倒れた家の柱の下から赤く焼け爛れた小さな人の手がのぞいていた。 「大丈夫ですか!」 イーシュは轟々と炎を上げる建物へと駆け寄り、柱の木材を押し上げようとした。焼けて炭になり始めているとはいえ、成長途中の少年が動かすにはそれは重過ぎた。べろりと手のひらの皮膚が剥ける。 小さく切れば動かすことができるかもしれないと、イーシュは思った。何かを切るにはお誂え向きの力が自分にはある。問題は自分がそれを一人で制御しきれるかどうかだった。 しかし、迷っているだけの余裕はない。イーシュ一人でもどうにか力を使いこなすしかなかった。失敗して力を暴走させてしまったらだとか、間違って下にいる人ごと切ってしまったらなどと躊躇してはいられなかった。 イーシュは目を閉じ、腹に力を込めた。意識を集中させ、鋼でできた花を思い描く。幸い、先程のロイゼン山での感覚はまだ覚えている。 体の中を背骨に沿ってせり上がってくる力の感覚を右腕へと誘導する。イーシュは琥珀色に光る目を見開くと、わずかに力を解放し、指先に鈍色の花を咲かせた。 イーシュは、鋼の花びらを太い木材にあてがい、慎重に切っていく。 額に汗が滲んだ。集中力が途切れれば、切ってはいけないものまで切ってしまいそうだった。 気道を焼かれたのか、喉がひどく痛かった。しかし、イーシュは手を動かすことをやめない。煙にやられて目も痛かった。しかし、今はそんな些事に構ってはいられない。 木材を小さく切り終え、イーシュは解放していた力を自らの中へ収めた。双眸が元の焦茶色へと戻っていく。 能力の行使で疲弊
煤と泥にまみれた二人がヴェレーンに戻ると、村はめらめらと揺らめく炎に包まれていた。夜と朝の狭間の色に染まった空とは対照的な色に照らされて浮かび上がる景色は、二人が覚えている平和な村からは遠くかけ離れていた。 記憶の中のトラウマを想起して、リスルは慄然として一瞬その場で立ちすくんだ。 「炎が……」 リスルは口の中でそう呟いた。自分が引き起こしたということが共通している目の前の事態は、全てを失った娘時代の晩夏の夜を連想するのには充分すぎた。 ほんの一度、季節が移ろうだけの短い間だったとはいえ、身を寄せ、世話になったこの村をリスルは故郷の二の舞にはしたくなかった。 しかし、長年使い続けた《レーヴェン・スルス》の影響を受けて弱りきっている上に、疲労で万全には程遠い今の体調では《ヴィサス・ヴァルテン》の力を使って消火を試みるのは危険だった。先程、ロイゼン山で力を扱い切れずに暴走させてしまっている以上、ここでまた同じことが起きないとも限らない。焦る気持ちを押さえようとしながら、リスルは何かできることはないかと考え続ける。 「……神父様」 リスルの様子を何もいえないまま気遣わしげに見ていたイーシュは人の気配を感じて振り返る。煤けた法衣に身を包んだ人の良さそうなその人は、イーシュ君と彼の名を呼ぶと、苦い笑みを浮かべる。 「こうなるような気はしていましたが……どうして戻ってきてしまったのですか。先程、忠告はしたはずですよ」 「だって……わたしのせいですから。わたしがもっとしっかり力を扱えていればこんなことには……」 蚊の中ような声でリスルは答え、俯いた。茶色い巻毛が彼女の横顔に浮かんだ表情を隠した。 どういうことですか、とレイモンはイーシュに目配せした。イーシュは泥にまみれたブーツの先で背伸びをして、レイモンへと耳打ちした。 「さっき、リスルさんが山で力を使って山火事の状況を探ろうとしたときに力を暴発させてしまって……。どうにも異能の影響で体調がよくないみたいで、力を扱い切れなかったみたいなんです。それで、そのときに発生した強風で村の方に炎が流されてしまって……」 なるほど、話はわかりましたとレイモンは頷いた。そして、彼は身を屈めて俯くリスルと目線の高さを合わせると穏やかにいう。 「シスター・リスル。あなたがすべてを背負い込む必要はあり
先を行くリスルに追いついたイーシュは、彼女と共に雪の積もった山道を歩いていた。辺りには煙が立ち込めていて、すぐそばにいるはずのリスルの姿さえも見失ってしまいそうなほどに視界が悪い。煙が目に染みて痛い。 リスルは辺りを探るようにしながら、慎重に歩みを進めていた。彼女は記憶の中の地図の情報を引っ張り出して、 「もう少し北寄りに進めば、崖になっていたはず。作業をするなら、たぶんそっちのほうがいいわね。元々燃えるものが少ないから、作業量を抑えられるわ」 方角すら怪しい中、二人はブーツの底で雪を踏みしめながら歩く。今の状況では、すぐにうっかり獣道へ迷い込んでしまう。 ふいにイーシュは体勢を崩し、足元を滑らせた。それまで立っていた場所の雪が崩れ、下へと落ちていく。咄嗟に持っていたシャベルを地面に突き立てたが、体重に耐えられずに傾いでいく。 「あっ」 声を上げたイーシュへとリスルの手が伸びてきて、腕を掴んだ。 「イーシュ、大丈夫?」 そういって引き上げてくれたリスルの腕は若い女性のものらしく華奢だった。イーシュは己を情けなく思いつつも、その腕に縋りながら這い上がる。 「ごめんなさい、わたしのミスね。思ってたよりもだいぶ進んでいたみたい」 「いえ……俺も注意不足だったので……。 ところで、ここが崖になっているってことはリスルさんが目指してたのはここですか?」 「そうみたいね。イーシュ、大丈夫そうなら、その辺りからずっと一直線に地面を掘って、溝を作ってくれる? わたしはこの辺りの木を切り倒すわ」 足元には気をつけてね、とイーシュへ注意を促すと、リスルは持ってきた斧の柄を両手で握り、振り上げようとする。しかし、気迫だけはそれっぽい感じを漂わせているが、姿勢がおかしいのかどことなく腰が引けている。生い茂る木々はどれも太く高かった。イーシュは何回目になるかわからないが、あまりにも無謀なことをしようとしていると思いが脳裏をよぎり、つい口を挟んでしまう。 「あの……リスルさん、斧を使ったことは……?」 「昔、教会の追手から逃げるときに投げつけてやったことならあるけれど……本来の使い方をしたことはないわね。それでもまあ、どうにかするわ。どうにかするしかないんだもの」 「無謀です……」 イーシュは半眼でリスルを見やりつつ、嘆息した。妙に気迫だけ
リスルとイーシュが湖畔の風車小屋に逃れてから三日が過ぎた。 肩から毛布を被り、椅子で眠っていたリスルは、明け方、イーシュによって揺り起こされた。 「リスルさん、起きてください。外が大変なことに……」 「ん……ふぁ……どうしたの、イーシュ」 眠い目を擦り、欠伸を噛み殺した間延びした声でリスルが応えると、イーシュは血相を変えて畳みかけた。 「外を見ればわかります! 山が燃えて……!」 山が燃えている。その言葉に反応して、リスルは完全に覚醒した。彼女は両頬を叩き、真顔になると立ち上がる。被っていた毛布を床に脱ぎ捨てると、彼女はイーシュに引っ張られるようにして小屋の外へ出た。 まだ夜の気配が色濃く残る暁の空の下、ヴェレーン村の向こう側にあるロイゼン山が赤く燃えていた。少女時代のトラウマを刺激され、リスルは口元を押さえて立ちすくむ。何とか絞り出した声も意味のない音にとなり、白い吐息と共に空気中へ霧散していく。 「な……」 山火事が起きていた。風向きが悪く、ヴェレーンへと炎が降りてくるのも時間の問題だった。 これに関われば自分はきっと、生きて朝日を見ることはないだろう。何となくそんな予感がした。 けれど、これは自分たちが招いた結果だ。リスルは我が身可愛さにこのままこの地を離れることなどできなかった。 「ロイゼン山へ行くわ。イーシュはここにいて」 ロイゼン山のある南西の方角へ走り出そうとするリスルをイーシュはその腕を掴んで止める。 「やめてください、危ないです。そもそも行って何をするつもりなんですか」 「わたしにできることをするの。《ヴィサス・ヴァルテン》の力をもってすれば、直接的な鎮火はできなくても、燃え広がる方向を変えることくらいはできるわ。緩衝帯を用意してそっちに炎を誘導してやれば……」 リスルは一人で木を切り倒して燃えるものを無くし、地面を掘って溝をつくることで延焼を食い止めるつもりだった。リスルがそれをイーシュに話すと、彼は首を大きく横に振った。 「無理ですよ! リスルさん一人でできることじゃないですよ! いくら異能があるっていったって、それ以外はリスルさんは普通の女の人じゃないですか! 無謀です!」 「無理でも無謀でもやらなきゃいけないの。これ以上、あの村に迷惑はかけられないもの。 イーシュ、気付いている?







